毛上 友加 さん
36歳(取材当時)、女性
宮崎県・養護教諭
短腸症候群:5年、残存小腸85cm
クローン病、治療後手術3回実施
はじまりはクローン病でした
年 | 月 | 年齢 | 経過 |
---|---|---|---|
1992年 | 5月 | 中1 | 成長障害の疑いで入院。検査の結果、ホルモン療法を開始 |
1993年 | 6月 | 中2 | 発熱と腹痛が続き入院。検査の結果、クローン病と診断 約半年間入院。中心静脈栄養、経管栄養、食事療法を行う |
12月 | 中2 | 退院。自宅にて経管栄養、食事療法を継続 | |
1995年 | 高校生 | 経管栄養を怠るようになり、入退院を繰り返す | |
2000年 | 20歳 | 食べると吐くような状態が続くようになった | |
2001年 | 1月 | 21歳 | クローン病の手術(1回目) |
2010年 | 10月 | 30歳 | クローン病による狭窄病変のため手術(2回目) |
11月 | 30歳 | 縫合不全により再手術(3回目)でSBS。残存小腸85㎝、人工肛門。約半年間入院。 | |
2011年 | 4月 | 31歳 | 退院。自宅にて中心静脈栄養を継続 |
現在 (取材当時) |
36歳 | 中心静脈栄養、職場(養護教諭)復帰。日常生活良好 |
それは私が中学1年のときでした。成長期にもかかわらず身長の伸びが悪かったため、成長障害の疑いで宮崎の小児科に入院し、検査の結果、成長ホルモンが不足しているということでホルモン療法を受けることになりました。しかし、治療はあまり奏功しないまま中学2年になり、発熱や腹痛が続くようになりました。そこで、小児ではあまり行われていなかった小腸と大腸の検査をしたところ、小腸にクローン病の病変が見つかりました。振り返ってみれば、中学1年のとき、ホルモン療法がなかなか奏功しなかったのは、すでにクローン病を発症していたからなのかと思います。
そして1回目の手術
当時、小児のクローン病は珍しく、他の病院から資料やデータを取り寄せて治療が始まりました。治療はステロイド等の薬物療法や、腸の安静を保つための数週間の絶食とそれに伴う中心静脈栄養、また、経管栄養や食事療法を行いました。小腸の炎症が治まると栄養状態が良くなり、身長も伸び始めました。約半年間入院し、退院後も自宅治療で1日12時間の経管栄養と食事療法を続けました。しかし、高校生になって成長期が終わると身長の伸びは止まり、体重のみが増加し始めました。そして、厳しい食事制限があり、食べたいものを我慢しているにもかかわらず、経管栄養で太っていく自分が嫌になり、少しずつ経管栄養を怠るようになり、食生活も乱れていくようになりました。その結果、当然症状は悪化し、入退院を繰り返すようになってしまいました。そして、症状が改善しないまま、2000年頃から食べたら吐くという状態が続き、手術を勧められたのですが、SBSになるのが嫌で先延ばしにしていました。けれど症状は悪化し、もう手術以外に方法はないという状態にまでなってしまったため、決心して2001年に1回目の手術を受けました。
期せずして短腸症候群(SBS)患者に
1回目の手術後、通院しながら元気に過ごしていたのですが、2005年頃からクローン病の症状が再び現れ、入退院を繰り返すようになりました。段々と小腸と大腸の数ヵ所に狭窄が進み、2010年に狭窄形成術を受けることになりました。狭窄形成術は、病変部位を切除せずに狭窄部位を広げて腸の通りを改善するというものですが、この手術で縫合不全を起こし、わずか10日後に再手術となってしまいました。手術が終わり、回復室に行きましたが、再手術の3日後に腸間膜からの大出血が起こり、コイルで止血をし、ICUに入りました。数週間後、ICUで目が覚めたとき、私は、人工肛門をつけ残存小腸85cmのSBS患者になっていたのを知りました。まさか自分がSBSになるとは思っていなかったので、SBSになったことがショックで、ただただ涙を流すだけでした。
退院後、時間の経過とともにSBSの大変さを実感するようになりました。また、いつかクローン病が治る新薬が出る日を夢見て、できるだけ手術をせずに腸を残そうと努力をしていたのに、SBSになり、腸管自体がなくなってしまい、「もうどんなに努力をしても、普通の体に戻ることはできないんだ...」と未来に希望が持てなくなっていました。
SBSをカミングアウト
私は小学校の養護教諭をしていたのですが、SBSになって生活が一変し、心身ともに負担が大きく仕事への復帰をあきらめる時期がありました。けれど、SBSだから仕事ができないと決めつけるのは逃げになるのではないかと考えるようになり、「SBSでも働くことができる」ことを私の生き方を通して伝え、誰かを勇気づけることができれば、と思って復職を決意しました。
SBSになって日常生活が一変したわけですから、復職に際してはさまざまな苦労がありました。ズボンでもストマが目立たないストマカバーを作製したり、500mLの輸液製剤と輸液ポンプを入れられるウエスト型バッグを使用したり、まず身体に負担がかからないように工夫しました。
復職してから全校朝会で、児童と教員に病気のことを話す機会をいただきました。そこで、「SBSで栄養補給と水分補給をするために点滴をしています」と輸液製剤のバッグを見せて自分の状態を説明しました。ちゃんと理解してくれるだろうか、偏見を持たれないだろうか...と、話をする前は不安がありましたが、いざ話してみれば心配していたことが嘘のように、みなさんが理解を示してくださいました。そして学校側の協力も得て、働きやすい環境を作ることができました。この経験から、SBSという疾患や自身の状態など、隠さずに情報をオープンにすることがとても大切だと痛感しました。本当に思い切って話してよかったと思っています。
SBS治療経験から学んだこと
SBSになり、CVポートを埋め込んだ中心静脈栄養をしていますが、中心静脈栄養は、細心の注意を払っても感染を起こしやすいというリスクがあります。私も当初は3ヵ月に1度ぐらいの頻度でカテーテル感染を繰り返していましが、輸液製剤にビタミン等を添加するようになってから、感染を起こすことが少なくなりました。このとき、適切な栄養補給によって体調は劇的に変化することを実感しました。
現在SBSになって約5年が経過しましたが、中心静脈栄養を継続しながら仕事も続け、毎日を元気に過ごしています。SBSになってからの5年間を振り返ると、希少疾患に関する情報が少ないことを痛感しています。現在は、患者会などを通して情報収集していますが、患者会以外の情報ツールや情報量自体が増えることを願っています。
SBSは患者数が少ないため、専門医は決して多いとはいえません。そこで、SBSの患者自身が「ビタミンや微量元素が足りているか調べてください」「骨密度の検査をしたいのですが」というように、具体的かつ積極的に気になる点を医師に伝え、しっかりとコミュニケーションを取ることが重要だと感じています。
現実に目を向けて見えたもの
SBSになったときは未来の自分の姿がイメージできず、希望が持てない状態でした。SBS、ストマを造設している自分を受け入れることができず、普通の生活に戻ることばかりを考えていました。
毎日点滴をしている事が嫌になり、点滴をしないことがありました。すると、1日も経たないうちに、手の指がつり、足がつり、しまいには体全体がつり苦しくなりました。この体験を通して、私は点滴をしないと生きられない体だという事を痛感しました。そこで初めて、現実から目を背けてはいけない、きちんと見なくてはいけないと考えるようになりました。また、「大変だけれどがんばろう! 病気は条件で、今の自分でもできることがある! この体でもできることをさせていただこう!」と心の底からこのような気持ちが湧いてきました。これが、私が本当の意味でSBSと共に歩む出発点だったと思います。
それからは、家族の協力を得ながらきちんと中心静脈栄養を継続し、安定した状態を得ることができています。今では外食もできるようになり、泊りがけの研修や旅行にも行けるようになりました。
いろいろと大変な事はありますが、このように心がスッキリと明るく生きられているということが何よりも私の幸せです。
SBS患者から先生方へ
SBSの患者さんをみる先生方が治療にあたるときは、ぜひ患者さんに「SBSでも点滴をしながら仕事をし、皆と共に日々の生活を楽しむことができる!」と伝えてください。私の経験を知ってもらうことによって、ひとりでも希望と自信を持ってくれる患者さんが増えればとても嬉しく思います。
「逃げない! 捨てない! あきらめない!」――この言葉は、私から私への一番の励みの言葉でもあり、これからもずっと頑張っていこうと、心から思えるのです。